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ニューカッスル・ユナイテッド NEWCASTLE UNITED  HOWAY THE LADS!!

ニューカッスル・ユナイテッド NEWCASTLE UNITED HOWAY THE LADS!!

人名事典:過去のウチの選手、関係者

※某掲示板に掲載したものです。一部は用語事典とかぶってます。

Andy Cole:アンディ・コール
「コール・ザ・ゴール」と呼ばれた90年代初めのニューカッスルのエース。日本では元マンチェスター・Uのストライカーとして語られがちだが、コールの全盛期は年間34ゴールを決めて得点王に輝いたウチでのシーズンであったと確信している。この活躍に目を付けたアレックス・ファーガソンがウチからかっさらっていった時には地元で暴動寸前の騒ぎが起きており、キーガンでさえ身の危険を感じたそうである。ジノラがバルセロナからのオファーを受けた際、キーガンは「僕はコールの件で懲りたから、もう選手を出すのはイヤ」と弱音を吐いたという。コール自身もウチを追い出されたことはいたくショックだったそうで「ケビンを恨んだ」とのちに告白している。んなワリには生まれた時からマン・Uにいるよーな顔してたのは納得がいかない。

Nicos Dabizas : ニコス・ダビザス
99年に加入。アルベール亡き後の唯一まともなセンターバック。ことにギリシャ代表ではワールドクラスのプレーを見せるが、ウチではタコミスも少なくなかった。空中戦に強く、セットプレーでは強烈なヘディングを決めてみせた。ウチに在籍していた間、サンダーランド、ボロ、マンUと、重要なライバルとされるチームとの対戦で得点しており、サポーターをおおいに喜ばせたことは特筆に価する。

Les Ferdinand:レス・ファーディナンド
コールの後を受けてエースになったストライカー。QPR から94年に加入。俊足ではコールに劣るものの、あのデカい身体でゴールに飛び込んでこられるとたいがいのDFは負けるかケガをする。加入してすぐにゴールを量産、7 試合連続ゴールという記録も残した。非常に紳士的で穏やかな性格もあり、サポーターからは「サー・レス」と呼ばれている。アホ監督、ダルグリッシュがスパーズに売り飛ばした際には激怒していたが、その後シアラーがケガしたため、ダルグリッシュが放出を取り止めて、戻そうとしたので、もっと怒って「死んでも帰らない」と発言、ダルグリッシュの無能ぶりをしみじみと回帰させる存在である。マンUのリオ・ファーディナンドとはまたいとこに当たる。一昨シーズン、ボルトンの選手としてSJPに戻ってたきた際のレスに対する大歓声に、ボルトンの皆さんがもれなく驚いた後、「凄いよね、レスは何年ここにいたの?」という問いかけに「2シーズンだ」とゆったところ、誰も信じてくれなかった(笑)


Hughie Galleher:ヒューイ・ガラカー
1920年代のニューカッスルとスコットランド代表 (ただし血統的にはアイルランド人である) の伝説的ストライカー。50年代にミルバーンが現れるまで、ニューカッスルで最も有名で最も偉大な選手と呼ばれていた選手である。身長165 センチ(156センチという説もあり) と小柄ながら、ヘディングも強く、当時のジャーナリストの言葉を借りれば「マシンガンのごとく放たれるシュート」でゴールを
量産した。ニューカッスル最後のリーグ優勝、1926-27 シーズンはキャプテンとエースストライカーと二役をこなし、タイトル獲得の原動力となった。天才にありがちなことだが、ガラカーも規律や束縛を嫌い、また喫煙、アルコール (ついでに女も) が大好きという選手であったため、監督やフロントとは衝突しがちであった。全盛期を過ぎるとその性格が祟り、ビッグクラブからはお呼びがかから
なくなり、また離婚、長男の病死など私生活での不幸にも泣かされた。引退後はジャーナリストとして活動をはじめるが、選手時代からのアルコール依存症は治らず、妻子に暴力を振るうこともたびたびだった。57年に息子への虐待を理由に起訴された翌日、鉄道自殺を遂げる。洒落者として知られたガラカーらしい上等のコートを羽織り、彼はゆっくりとゲーツヘッドの土手を上っていく。おいかけっこをしていた子供たちが彼のすぐ脇を通りすぎ、そのうちのひとりがコートの袖をかすめた。ガラカーはその子供に向かい「Sorry 」とつぶやき、その数分後に線路に身を横たえた----- これが彼の最期の場面と伝えられている。ケビン・キーガンはガラカーについて「うちの親父がすっげー大ファンだったよ」と語っていた。

Kevin Galleher: ケビン・ガラカー
97年にブラックバーンから加入。ウインガータイプのFWとしてプレーしたが、年齢もあり、あまり活躍はしていない。もともと戦力補強というよりはアランの話し相手という色合いの濃い移籍ではあった。戦力とは言いがたかったが、スコットランド産としては例外的美形だったため、ベンチの花としては非常にイケていたと、個人的には思っている。ヒューイ・ガラカーとは無関係だが、ケビン・ガラカーの祖父パッツィ・ガラカーはスコットランドの伝説的名ストライカーなのだそうだ。写真みると、えらい美形なおじいさんなので、ケビンは才能はともかく、美貌は受け継いだようである。

Paul Gascoigne: ポール・ガスコイン
イングランドが生んだ最高のファンタジスタにして、アホの代名詞。ゲーツヘッド生まれで、早くから天才の素質を発揮していた。ジョー・ハーベイはガッザのことを「世界で一番天分の才能に恵まれた少年」と絶賛している。17歳でトップチームにデビューし、ファンタジスタぶりを遺憾なく発揮するが、惜しむらくは当時のニューカッスルは2部。この天才を長く引き止めることはできなかった。ウチを去ったあとも、しょっちゅうニューカッスルに戻ってきては飲み歩いているという。愛称は「ガッザ」。

David Ginola: ダビド・ジノラ
94年にパリ・サンジェルマンから加入。モデル並のルックスと華麗なテクニックで、たちまち人気者になる。シアラー加入以前、ウチで一番多くのユニフォームを売った男である。シアラーとソリが合わず、さらに最大の理解者キーガンの辞任によって完全にやる気を無くし、チーム批判、サポーター批判までやってしまい、今では可愛さ余って憎さ百倍のウチのサポーターから凄まじいブーイングを食らうようになってしまった (涙) 。98年にスパーズに移籍、その後アストン・ビラ、エバートンを経て、現在は俳優もどき。父はイタリア人で母はフランス人というハーフ。イタリア人の血を引いてるなあと思わせたのは、女にはすごく愛想がいいところ(笑)。

Joe Harvey: ジョー・ハーベイ
50年代の黄金時代のキャプテンにして、60、70年代の監督、そしてスカウトとして30年以上ニューカッスルに関わってきた伝説の人。ヨークシャー出身で、しかもチームメイトにはニューカッスル史上最高の選手ミルバーンがいるという状態ながらもキャプテンを任され、FAカップ連覇を達成するという見事な結果を残した。監督としても65年のDiv.2 優勝、69年のフェアーズカップ優勝のタイトルをもたらした。74年にFAカップ決勝に進出したが、リバプールに敗れている。しかし、マルコム・マクドナルド、テリー・マクダーモットといった名選手を見出し、魅力的なチームを作り上げた手腕は見事。スカウトとしてもクリス・ワドル、ポール・ガスコインらを見出している。90年に心臓発作でこの世を去った。イタリアン・マフィアを思わせる眉毛の太い、濃い目のハンサムである。

Ditmar Hamann:ディトマール・ハマン
98年加入。ダルグリッシュ好みの守備のうまいプレーヤーで、慣れればさぞや強力な戦力に・・・と思われた矢先に骨折、復帰した時にはフリット監督が誕生していたため、リバプールに逃亡した。高い買い物に終わってしまったので、地元民からはけっこー憎まれている。ファンサイトでは一時名前で呼ばれず、「あのドイツ人」とか「例のドイツ人」と呼ばれていた。オランダ人とドイツ人にうまくやれというのは酷な話ではある。

Steve Howay:スティーブ・ハウイー
サンダーランド生まれでニューカッスルのユース育ちという重そうな宿命を背負ってるせいか、本人も重量級DFである。キーガン監督のキャラを反映して、やたらと陽気な選手が多い中、異質の無表情ハードボイルドキャラクターであった。顔と芸風がこんなに一致してる選手も珍しい。

Aaron Hughes:アーロン・ヒューズ
99年にトップチーム昇格。同年代のユース選手の中では最も期待されていた選手。ウチでトップに上がるより先に北アイルランドA代表に選出されている。もともとCBで、読みで勝負するクレバーさと的確なカバーリングが高く評価されていた。今は右SBに定着しそれなりの評価を受けているが、彼の天性はやはりCBにあると個人的にはちと残念。トップチームに上がるためにずいぶん努力もしたようで、エライもんだと感心したが、理由はひとつ、「サマンサ(妻の名前)の父親が、トップに上がるまで結婚は認めないと言ったから」だそうである。19歳まではジュード・ロウばりの美少年だったが、最近濃くなりすぎ(涙)。18番を好んでつけていた理由は「妻が11月1日生まれで僕が11月8日生まれだから」という、とことん愛妻家の男。

Jarmine Jenas:ジャーマイン・ジェナス
2001年に加入。前チームのノッティンガム・フォレスト時代から評価の高かったMFで、U-19ではキャプテンも務めた。ノッティンガム生まれでフォレストを深く愛するだけに、当初はウチのオファーを嫌がっていたが、名将ボビー・ロブソンの「坊や、おいちゃんはね、ロナウドやフィーゴにサインさせた監督なんだよ!」の口説き文句に気を良くしてやってきた。最近、私服までダイヤーに似てきて、ますます区別がつかない。ノビー・ソラーノに言わせると「全然違うよ。キーロンはボールを持つ選手だけど、J.J.はボールを走らせるタイプでしょ」とのことだが、似てるって見かけの話なんですけど(汗)。

Philip Albert:フィリップ・アルベール
キーガン時代を彩ったベルギー代表センターバック。エレガントなプレー、長身と美貌により、サポーターから「プリンス・アルベール」と呼ばれた。01-02 シーズン開幕前のインタートト、対ロケレン戦に姿を見せ、Toonサポにアルベール・コールをされた際には涙をながさんばかりに喜んでいたそうである。サポのひとりに「どっちの応援に来たの? 」と問われた時には「もちろんToonに決まってるさ! 」と答えていた。相変わらずのジェントルマン (惚)

Faustino Asprilla:ファウスティーノ・アスプリージャ
イングランドでプレーした初のコロンビア人選手。パルマからニューカッスルに移籍。97- 98シーズンのチャンピオンズ・リーグ対バルセロナ戦でのハットトリックはもはや伝説。この試合は『VIVA! ASPRILLA』なるビデオにもなっている。ハーフラインから2 タッチでゴール前に行ける脚力、垂直飛びで2 メートルはいけそうなジャンプ力と人間離れしたワザでファンを魅了した。96年の大阪でのプレシーズンマッチ、ホテルで見かけたアスプリージャは係員が静止するのをムリヤリふりきって、正面玄関から出ていったところ、たちまちファンに囲まれて困っていた。友人と一緒にこれを見ていた私は大爆笑。以来、身内ではムリヤリ、近道することを「アスプリージャ」と呼んでいる(本当)

Warren Barton:ウォーレン・バートン
94年にウインブルドンから加入。当時英国で最も高いDFだった。顔に似合わず、非常に献身的なプレーをする選手で、それゆえか監督に好かれるタチで、キーガン辞任後、ダルグリッシュもフリットも就任して一番最初に契約延長を約束してるのはこの男である。子供の頃から、熱烈なアーセナル・サポーターで、それゆえに「スパーズ戦が一番燃える」のだそうで、ウチからダービーに移籍する際も、スパーズ戦に間に合うように移籍している。ガナーズ・サポであることはウチのサポのからかいのネタにもなっているが、「それはガキの時の話だって。いまはこのチームにすべてを捧げてる」と言い訳し、サー・ジョン・ホールに「おまえはもう立派なジョーディだ」と言われた時には狂喜していたというのでまんざらウソでもないらしい。将来は指導者になりたいというだけあってUEFAのコーチライセンスを持っていて、ウチに在籍中は少年向けのサッカースクールもやっていた。ついでに旅行社経営も手掛けている。最近、SKY SPORTSで解説も始めた。先のボルトン戦の解説もこの人。

David Batty:デイビッド・バッティ
リーズ、ブラックバーンを経て、95年にニューカッスル加入。「タックルの鬼」として知られる怖いお兄さん。当然警告・退場の「嵐を呼ぶ男」でもある。開幕から6 試合出場停止を食らったことも。しかし相手の攻撃の目をつぶすことに関しては、得意技であるロビング気味のパスとともにイングランド随一。レース狂でF1やWGP でしばしばカメラに抜かれている。最も尊敬する人はイギリスの有名なバイクレーサー、カール・フォガティとのこと。息子が双子で、父親を加えると三つ児になるほどクリソツ。私事: サインをくれる際にメンバー中唯一「TO ××」と私の名前を入れてくれたええヤツである。

Peter Bearsley: ピーター・ベアズリー
83年にリバプールから加入。顔がブサイクなのと俊敏ですぐれたテクニックを持つFWとして有名。代表ではリネカーのベストパートナーとして知られた。ニューカッスル出身でウォールズエンド・ボーイズ出身という生粋のジョーディで、キーガンとは親友の間柄。現在はユースチームのFWコーチを務めている。

Oliver Bernard: オリビエ・ベルナール
99年に加入。フランスのリヨンから獲得したが、この時移籍金をめぐり交渉が難航し、結局移籍成立まで4 カ月もかかった難産の息子。給料が安いと不満をいって、昨シーズンはセインツでプレーするも、降格によってフリーに。早速ウチに「帰りたい」とゆってきたが、鬼が門前払いに。バーミンガムやウェストハム入りの噂もあったが、結局スコットランドのレンジャーズに。

Kevin Keegan: ケビン・キーガン
70年代のリバプール、イングランドの伝説。「キング・ケブ」という愛称で知られた。ドイツ、ハンブルガーに移籍後、2 年連続でバロンドールを受賞。同賞を2 回受賞した唯一のイングランド人である。82年から2 シーズン、ニューカッスルでプレー。その後92年に監督に就任。人々を魅了する超攻撃的サッカーでたちまちニューカッスルをプレミアの強豪チームに引き上げた。祖父も父も炭鉱夫という由緒正しいジョーディで、その意味ではヨークシャー生まれとはいえ、彼は生粋のジョーディの血を引いているのである。キーガン指揮下、ニューカッスルは優勝争いには加わったもののノンタイトルに終わる。しかし、その魅力的サッカーはいまだにサポーターの心を捉えて離さない。それがゆえに現在でもニューカッスルの理想の原点はキーガン時代にあるのであり、それを知らずに語るとイタタな目に遭うということを忘れてはならない。

Jimmy Lawrence: ジミー・ローレンス
1904-1922 シーズンで505 試合に出場(クラブ記録)した伝説のGK。グラスゴー生まれのスコットランド人。実は170 センチぐらいしかなかったという。あんまり昔の人なので、プレーを確かめる術がないのだが、他のGKがお手本にすべき選手だったらしい。つまりは“良いキーパーのスタンダード”。ウチを引退した後、すぐに監督になり、プレストン・ノース・エンドにスコットランドの伝説的名選手で後にアーセナルの伝説にもなったアレックス・ジェームズを呼んだ。またドイツに渡り、カールスルーエをリーグ優勝に導くなどの実績も残している。

Robert Lee: ロバート・リー
92年に加入。18歳でチャールトンのトップチームにデビューした時はセンターフォワード、ニューカッスルでは右ウイングとしてデビューした。地元志向の強いウチでロンドン生まれの選手がヒーローになるのはかなり難しいことで、その例外といっていいのはスーパーマックとロブ・リーのふたりだけ。闘志とリーダーシップ、献身的な守備、そして完璧なボールのつなぎ役としてチームメイトとサポーターから深く信頼された男。01-02 シーズン、若返りを計るクラブと対立、ダービーに移籍したが、それも元を返せば、ロブ・リーのコーチ就任を望むクラブ側と現役にこだわるリー本人の話し合いが平行線をたどったため。この対立のさなか、ファンサイトが行なった「リーを残留させるべきか否か」アンケートには実に75%が「残留させるべし」と答えている。「ワトフォードより北に行ったことのないロンドンっ子」を自認するロブ・リー夫妻だが、「でも、ウチの子供は3人ともダラム訛りで喋るんだよ」と笑わせてくれた。

Malcolm MacDonald:マルコム・マクドナルド
70年代のニューカッスルの伝説。「スーパーマック」という愛称で知られ、絶大な人気を誇った。現在もノースイーストに住み、新聞、ラジオなどのメディアに登場する他、ノースシールズFCの名誉会長にもなっている。現役時代の「猿の惑星」にノーメイクで出られるルックスから、現在のもうすぐ定年の課長的ルックスへの変貌はオールドファンにはちと悲しいものがあるらしい。「旧・生き神様」と勝手に命名。ハンサムじゃないけど、フンイキがすごくカッコいい。私の憧れの人のひとりです(惚)

Terry McDermott:テリー・マクダーモット
リバプール生まれ。ウチとリバプールを行ったり来たりする選手生活を送ったのち、キーガンのアシスタントコーチに就任。ベンチで女子高生のようにはしゃぐコンビとしてサポーターに愛された。74年FAカップ決勝時はジノラとタメを張れるような美形だったのに、その後リバプールに引き抜かれて以降はダン池田のそっくりさんになってしまったのが不可解。キーガン辞任後はダルグリッシュのアシスタントを務めたが、フリット監督就任と同時に辞任。競馬関係のシンジケートに関わっていたが、鬼の人気のなさに同情して戻ってきた。「テリー・マック(マー!としか聞こえないけど)」という愛称で呼ばれていた。

Billy McCracken:ビリー・マクラッケン
ニューカッスルの歴史だけでなく、世界のサッカーの歴史に名を残す選手。1900年代から20年代にかけてニューカッスルでプレーした名CBで、「オフサイド・トラップ」の産みの親である。それだけでも凄いが、彼の名がサッカー史に残るのは、そのオフサイド・トラップによって被害を被った他クラブの猛抗議によって、FAがルール変更に踏み切ったためだ。今も残るFAの17か条のルールが変更されたのは、この時(1925年)だけであり、マクラッケンは史上唯一、ルールを変えた男として伝説になった。クラブの在籍年数に関しては、彼の相棒フランク・ハズペスとともに19年間とクラブ最長記録を持っている。恐ろしいほど頭がよく、話術が巧みで、戦術眼の高さは驚異的だったと伝えられていて、残された写真を見ると長身でハンサムとルックスも完璧。天は二物を与えるものなのだなあ、と感心してしまう男である。

Jackie Milburn:ジャッキー・ミルバーン
ニューカッスルクラブ史上最高の選手で50年代の黄金時代の立役者。スピード、テクニック、アイデアとすべてに秀でた天才ストライカー。FAカップ決勝最速ゴール、FAカップ全試合で得点など凄まじい活躍をした。ニューカッスルで唯一通算200 ゴールをあげた選手で、そのことからも彼の驚異的な得点力がわかるが、ジャッキーの魅力はなんといっても、ゴールそのものの美しさであったという。直接ジャッキーから薫陶を受けたマルコム・マクドナルドは「ただボールをたたき込むだけではダメだ。サポーターを喜ばせる、美しいゴールを決めることがニューカッスルのナンバーナインの義務なのだ」と言い聞かせられたそうである。現役引退後はクラブから監督就任を要請されるも断り、イプスウィッチ、北アイルランドのクラブなどで指揮を取る。その後はニューカッスルに戻り、解説や評論を執筆した。88年10月にガンで死去。ジャッキーの柩を乗せた車がメインストリートを静かにいく。道の両脇には一般市民が並び、女性たちはハンカチで涙を拭い、男たちは帽子をとって車を見送る。教会は花で埋めつくされ、柩を出迎えた司祭さえも涙を流していた---これが映像に残るジャッキーの葬儀の様子。どの写真を見ても、背筋をピンと伸ばした、映画俳優ばりの美形である。

Bobby Moncur: ボビー・モンカー
60年代後半から70年代はじめにかけてキャプテンを務めた。クラブ史上唯一のヨーロッパタイトル、1969年のフェアーズ・カップ優勝をもたらした英雄。DFだったから当たり前だが、ウチでの通算ゴールがたった2ゴールなのに、その2ゴールがフェアーズカップ決勝での2ゴールなのであるから、凄い強運の人。思わず「兄貴! 」と呼びたくなるマッチョな二枚目である。ゴルフの腕がプロ並で、現役引退を発表した時は新聞各紙が大真面目に「モンカー、ゴルファーに転向か?」と書いたそうである。一昨年のUEFAカップのホーム戦にはもれなく顔を見せていた。ガリー・スピードの20年後というカンジのカッコいいおじさんである(惚)

Andy O'brien: アンディ・オブライエン
2000年に加入。イングランド生まれのアイルランド人。レギュラー獲得まではまだ時間がかかるだろうと思われたが、アラン・ゴマの放出、右サイドバック崩壊によるアーロン・ヒューズのコンバートにより、ポジションを獲得。時折若さと経験不足を露呈するタコミスはあるものの、フィジカルの強さと1対1の強さは買い。得意のヘディングはセットプレーの強い武器でもある。一番気になるのは年齢に似合わないおでこの広さとウソついて伸びたと思われる鼻。

Stuart Peace: スチュアート・ピアス
97年に加入。90年代のイングランドを代表する名DFだが、90年イタリア大会準決勝、96年ユーロと、なぜか大舞台でPKを外している。98年のチャンピオンズリーグ、対ディナモ・キエフ戦で恐ろしいFKを決めた時には結構惚れた。あのリネカーが「人生で遭遇した最も怖い体験は? 」という質問に「ピアスのFKで壁に立つこと」と答えていたが、それも納得のいく破壊力であった。ウチでついたものではないが、「サイコ」というニックネームで知られている。プロ選手になる以前は電気工事人の修行をしたことがあり、その腕を活かして、バートン家の照明の取り付けをしてやったそうだ。ウチの選手ってどーしてこう庶民的なのかしら(涙)

AlessandroPistone: アレッサンドロ・ピストーネ
97年に加入。ウチの歴史でも珍しいイタリア人選手。かつて若手の宝庫だった時代のインテルで将来を嘱望された選手だった。流れ、流れてウチにたどりつき、さあこれからという時に、よりによってサンダランドのギャビン・マッキャンの殺人タックルによって大腿部を骨折。復帰に1 年以上を要したため、ポジションを失いエバートンに。さぞやウチを恨んでいることであろうと思いきや、「僕の選手人生で一番充実していた時代はニューカッスルだね。最高の思い出だ」と語り、サポーターを涙させた。ミラノ生まれのミラノ育ちだけあって、私服がマジにカッコよかったのが、私にとっての最高の思い出である。ありがとう、ピストーネ (涙) 。

Lauren Robert:ロラン・ロベール
2001年加入。インド洋の島、フランス領リユニオン島出身。パリ・サンジェルマンからウチ、しかも監督のルイ・フェルナンデスとケンカして出てきたと経緯がジノラとクリソツ。実際、地元では「New Ginola」とも呼ばれた。それまで右サイド偏重だったウチの攻撃を左右遜色ないレベルに引き上げたのは他でもないこの人。アランも「こんなにいい左ウイングはジノラ以来」と絶賛。当初ゼンデンを獲得するつもりが、「チャンピオンズリーグを狙えるチームに行きたい」とチェルシーに逃げたため、ロベール獲得へと方向転換せざるをえなくなったのだが、これが大正解。いまとなってはありがとう、ゼンデン! と感謝状を送りたいぐらいである。ゼンデンよりいい点として、ロベールには必殺FKがあることも付け加えておきたい。01-02 シーズンのプレミアシップで最も多くのアシストをした男である。地元ファンの間では賛否両論分かれる選手だが、スキルという点においては「すごい」で全員一致する。

George Robledo: ジョージ・ロブレド
50年代始めのウチの看板FW。チリ生まれだが、母親がイングランド人で、1932年のチリ革命の際、家族でイングランドに移住、ヨークシャーで育った。ラテンの血を引くだけにタフで情熱的なストライカーで、50-51 シーズンには得点王にも輝いた。2歳年下の弟テッドもプロ選手で、本来、ウチはジョージだけが欲しかったらしいが、「弟も一緒でなければ行かない」と言い張ったために兄弟で獲得、53年にウチからチリのコロコロへ移籍する際にもふたり揃ってという仲良し兄弟だった。引退後アメリカの製油会社に勤めていたテッドは不幸にも70年にペルシャ湾沖のタンカーから落ちて行方不明に。後に殺人であることが判明したが、結局遺体は見つからなかった。兄ジョージはチリで現役を終え、89年に亡くなっている。ふたりともよく似たエキゾチックな顔だちのハンサム兄弟である。やたらと私がハンサムを連発してるとお思いでしょーが、50年代の黄金時代のウチの選手、ジャッキーをはじめ、ハンサム揃いなんです。そりゃ伝説になるはずだと納得。

Bryan ‘Pop'Robson: ブライアン ‘ポップ' ロブソン
60年代のウチの看板FW。小柄で敏捷、いつもネットにボールをたたき込むスタイルから ‘ポップ' という愛称で知られた。ウチからウェストハムに移籍した時の移籍金12万ポンドはクラブ記録となる金額。そしてリーグ得点王となり、その価値があることを証明している。昔の人なのでプレーはよくわからないんだけど、若ハゲなのは間違いなさそうである。サンラン生まれで、後にサンランに里帰りして選手、選手兼コーチ、クラブスタッフ、アシスタント・コーチと出入りの激しい生活を送っている。 現WBA監督とは別人なので注意。※ちなみにロブソンってノースイースト特有の名前のようです。その他ノースイーストに多い名前としてはアームストロング(これマジに多いです)、グレイなどがあります。サイクリストのランス・アームストロングやアポロ11号のアームストロング船長なども多分ルーツはノースイーストだと思います。


Stan Seymour: スタン・シーモア
栄光の20年代を支えた名選手であるばかりでなく、後にディレクター、名誉監督、会長、副社長などを務め、実に50年以上ニューカッスルとともに生きた男。イングランド・フットボール界で『ミスター・ニューカッスル』と呼ばれた人物である。ダーラム近郊の出身で、、ニューカッスル・ユースで育ったが、いったんクビになり、ブラッドフォードやグリーンノックなどを経て、1920年に古巣に帰ってきた。得点力のある左ウイングとしてFAカップ優勝、リーグ優勝など実りの多い8シーズンを過ごし、29年に現役引退。10年後にディレクターに就任、実質的な監督として栄光の50年代を築いた。シーモアは非常に頭も切れ、目端のきく人物であったらしく、ディレクター就任以前はジャーナリストとして活躍し、クラブ経営のかたわら、当時はまだ珍しかったスポーツショップをオープンさせたりもしている。彼の長男スタン・シーモア・ジュニアも後にクラブの会長を務めた。 ジャッキー・ミルバーンは自伝の中で「シーモアを非難する人は少なくなかったし、また非難されても仕方なかった点は確かにあったと思う。だが、ニューカッスルというクラブに賭ける彼の情熱にはいつも感服するしかなかった」と語っている。

Gary Speed: ギャリー・スピード
98年に加入。91年のリーズ優勝時のメンバーでバッティの親友。ウェールズ代表キャプテンでもあった。運動量豊富で守備範囲も広く、2 列目からの飛び出しが持ち味。打点の高いヘディングが見物。しかし最近はやや老衰が気になる。アウトドア・ブランドのカタログモデル型美形で、チームグッズカタログでも写真がデカい。昔はなかなかのプレイボーイだったようだが、ウチに来てから結婚、子供誕生とすっかりジミな家庭人になっているようである。最近、昔ほどのハリがないが、ウチにいた時代のスピードの腹筋は世界一美しかったと断言する。

Lomana Tresor(Lua Lua): ロマナ・トレゾール,ルアルア
2000年加入。日本では正体不明選手でしかないが、コンゴ共和国出身でウェストハム育ち。「フットボール・ジャグラー」という愛称からもわかるように、ボールタッチ、キープともにアートの域にあるテクニシャン。デビュー戦は5 分足らずの出場だったと思うが、そのファーストタッチだけでSJPが「オオーッ」というどよめきとタメイキに包まれたのは忘れられない。数多くのクラブのトライアルを受けたが、身長172 cmが災いしてどこにも拾ってもらえず、イングランドのプロチームの中では最もビンボーと言われるコルチェスターでプレーしていたところをウチのスカウトの目に止まり、2500万ポンドで獲得。しかし、火の車のコルチェスターが最後まで放出に抵抗したのは特筆しておくべきだろう。本来はMFだが、サイドでもセンターフォワードでもOKというオールラウンダーで、独特のリズムとしなるようなフェイントは鳥肌もの。結局ウチではレギュラー取れずにポーツマスへ。ショラよかルアを残すべきだったと私は今でも思っている(悔)

Hugo Viana: ウーゴ・ヴィアナ
2002年加入。スポルティング・リスボンから9.5 ミリオンで獲得したMF。U-21ポルトガル代表では司令塔、スポルティングではボランチと多才な活躍を見せた。ユベントス、セルタといった強豪クラブからも誘いを受けていたが、U-21の試合に何度も足を運び、早くから獲得表明していたウチの真心(?) にうたれての加入となった。移籍金は当時イングランドの10代の選手での最高金額。とーぜん悪代官は渋ったものの、ヴィアナのビデオを見たとたんに、即OKしたそうである。長・短・ミドルと正確なパスが出せ、プレースキックもうまい。プレシーズンマッチ、最初の試合で2 得点と大活躍を見せ、サポーターのハートを鷲づかみにした。結局ウチにフィットできなかったという評価になっているが、ロベールの控えなのかスピードの控えなのかもよくわからない状況で、力を発揮しろというのが間違いだと私は思う。左サイドハーフならばベルナールでもアーロンでもいいコンビネーションを見せていたし、右でもダイヤーくんやJJとは意思の疎通はできていたと思う。要するにおじいさまの使い方が悪かったに尽きる(涙)


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